田中 嘉三 日記 はじめに

書写 田中眞一

父・田中嘉三の日記を後世に残さなければならないと決心した。

読める人がいなくなる。

母・田中ミツから「お父さんの昔の日記がある」と聞いていた。

友人の「ヴィオラ奏者」(ザルツブルグのモーツアルティーム)海老原俊一君没後、奥さんの恵子さんが福原に、ザルツブルグから帰り練習していた。

彼の実家に行く、常磐線の車中(品部乗り換え)の水戸線であったかも知れない。

熱心に手書の書物を読んでいる婦人の前に立った。あまりにも夢中で読んでいる姿に、彼女も注視していた。

「あっ!田中さんのお母さんではありませんか」と声をかけた。

不思議な出会いであった。

母も滅多に電車に乗らない。出掛けることが少なかった。恵子さんは今(2020年)もザルツブルグに住んでいる。

母は、笠間に嫁に来て、一度もお稲荷さんにお参りしたこともない。不信心とか、出不精とかでなく、絵描きの亭主と姑、舅、4人の子供、一家8人の食を得るため駅前のお爺さんの手打ち蕎麦を飲食店「田中屋」を維持しなければならなかった。

戦中戦後、日本画を買う人も居ない。貧乏の中、家族8人を支えるため、外出、しかも、神詣など出来る時間はなかった。

笠間に残り、田中嘉三記念館を守ってくれている、桂二君(弟)に電話。

段ボール1箱の古めかしい手帳が届いた。

父は笠間尋常高等小学校を卒業後、絵が好きだった息子を(私の祖父)亥之吉お祖父さんが水戸出身の横山大観先生の家に「嘉三を弟子に」と伺った。

大観先生は「私は弟子を取らない。笠間であるならば、木村武山先生の処へ」と示唆してくれた。

そのお言葉から木村武山先生の内弟子になったそうだ。

木村家は笠間藩士、武士の躾の厳しい祖母様※ が居らした。

※祖母様 日記中(木村武山の母上)ご隠居様と書かれている。

「実の孫のように慈しんでいただいた」、とある。

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