1923年9月1日~10日関東大震災(嘉三14歳)

9月1日 土曜日 曇後雨 大震災 東京大火

朝四時起きる筈であったが、五時まで寝過ごしてしまった。
六時に出発をし様として居ると、食?に浅野君の邪魔で八時になってしまった。
戸じまりをしてから出発したが大増の近くまでくると、折からの密雲が低下して、
冷たい風がくははったと思った折しも、雨が降りだしたので、傘をさしてきた。

大覚寺を画いてやろうと思っていたので、よく覺へる為に善く見た。
峠で一休見してから、雨の上に風がくははって、着物から荷物までぬれてきた。
福原の停車場に着いて「い~おしめり」とは笠間に着いて見ると吉野家のお孝また吉原までと思ったが途中で帰ってきた。
晝頃大地震があって、東京〇は大火だ。停車場の大火の放火。
人が上がった様だ。

9月2日 日曜日 曇晴 東京なを延焼中

停車地震の為に大火になったので、吉野家にきて居る人達は大騒ぎだ。
今朝、いはらき(新聞)では東京浅草神田の全焼がでていたが、確報ではない。
霞ヶ浦飛行隊の報によると、本所、深川、浅草、下谷、神田寺は全焼。
芝〇山〇殿は一〇火災を羅る。宮城の安否は煙りの為に知る事ができない。

東京市三分二は焼けた様だ。
人の傅だから確定ではないが、名古屋に宇都宮は家事のであるそうだ。
東京から逃げのびた人は実に憐れな者だ。
それを囲んで安否をきく停車場にまつ家族の〇、今なを延焼中とは、いよいよ東京は全滅だ。
宇都宮の大火はうそであった。
水戸に電話をかけたがわからない。
寝に着いたのは十一時半。

9月3日 月曜日 曇雨 東京延焼中

朝下りの一番列車で笹目の人が帰ってきた。
やはり地震ばかりでなく朝鮮人を、(でもまましいって)火を放ったそうだ。
二日夜、朝鮮人を三、四十人捕まへたそうだ。

今朝一時まで延焼して、○○、山本總理※(権兵衛)が暗殺されたことが新聞に出ていた。
確報ではない記事(そび?)に出てみたが、一組ぐらいしか帰ってきない。
東京二分の一は全滅だそうだ。横濱や横すか(須賀)、鎌倉、大森なども

つなみに火災の為に目も当てられる惨状である。
四時五十分の汽車で罹災民が帰ってきた。
その人の談によると、朝鮮人と見ると殺してしまうそうだ。
それで、日本人は手拭の目標(メジルシ)でいるそうだ。
七時の汽車で水戸へ行ったが、〇〇不通。

※二十一代、加藤友三郎(大正十一年六月十二日~大正十二年九月二日)
※二十二代、山本権兵衛(大正十二年九月二日~大正十三年一月七日)
※二十三代、清浦奎吾(大正十三年六月十二日~大正十三年六月七日)
※二十四代、加藤高明(大正十三年六月十一日~大正十四年七月三十一日)

9月4日 火曜日 曇雨

六時半の汽車で帰ってきた。
車中の罹炎民の話をきいて、朝鮮人を殺すなど、なんでもない事だ。
又、私の様な者でも涙が上がってきた。

父が行かうと思ったが、行かれないそうで行かない。
又、羽黒に行った。福原で鮮人が車の所に隠れていた騒ぎで、汽車がとまった。
羽黒着いた。
停車場では棍棒や種々の物を持ってまっていたが、いない。

友部に着いたが又不通。
小見に行って、足袋にきゃはん(脚絆)、
着物を持ってきて、四時五十分の汽車で鮮人くると云う騒ぎで大騒ぎした。
うっかり眠る事もできない。

9月5日 水曜日 晴雨

三時のかもつ(貨物列車)で罹災民が帰ってきた。
六時の汽車で鮮人が押さえられてきた。

新聞で浅草の観音や東京駅などはのこっているそうだ。
罹災民の話によると、沢山の人が集まって居る所に、鮮人が爆弾で六萬人も死んだそうだ。

四時頃雨が降り出してきた。
五時の汽車で鮮人が居ると云うので、大騒ぎをしたが、いなかった。
聞く所によると、鮮人を見付けて殺せ殺せと云うのも無理がない。
実に鮮人は獣だ。
強盗強奪をして女、またをさく等〇〇の二の舞だ。
予も五六人殺したくなった。
三輪や浅草を焼けても大丈夫だ。
向島は焼けてないそうだ。
夜は十一時に寝てしまった。

9月6日 木曜日 曇晴

学校や良民の同情心から救恤米をどんどん東京に送りだした。
着物を一枚洗濯した。

今日も鮮人の騒ぎで大騒ぎ。
自転車で大町の方まで追って行ったが、鮮人らしかないが、行く家まで人がついて居った。
大町※と桜町※が水戸に行った。母が羽黒に行った。

※大町、桜町 ともに寺腰家の者

東京に行く

九月七日 金曜日 曇晴

十時の汽車で東京に向かった。
我孫子で下車されて一時間半ばかりまっても出る様子がないので、意を決してあるき出した。
東京までは八、九里。大変だ。しかし、不幸中の幸いで北小金井から汽車に乗った。

途中○○水を出して「水をおのみなさい」とは実に感心だ。
北小金井で笠間駅、瀬き?君がいた。
時間がないので無礼で乗った。

列車やっと交心?したが一難さって又一難。
一行大幾人かの一人。
金をなくして大騒ぎ。

南千住にきた時、渡辺倉庫焼け残っていた。
燃や災が出ていた。

日暮里に着いた時、銃創をつけた兵士があるいて居る。
日暮里下りてからも棍棒や竹を持った人があるいて居る。
兵隊も五六人づつあつまっている。
幾度か人にきいて目的地※についた。
十時頃寝てしまった。寝てからも又地震がやってきた。

※目的地 多分向島の寺腰(幸助)宅か。大正二年生まれで嘉三とは四歳下。
幸助君は十歳。親は新太朗明治十一年生まれ(一八七八年)四五歳。

9月8日 土曜日 晴

六時半、別れをつげて、家を出、上野の山に登った。
遠近に小屋を立て、避難して居る人がある。

途中家のまがったのや、倒壊したのを見た。
九時頃大久保に着いた。うどんをたへて十一時出た。

そして柴田村(亥之吉の弟、岩城吉之助宅)に向かった。
学習院の焼けたのを見。〇〇染工場についた。片庭の人とは〇所で別れた。
まおちさんに会って茶をのんで居ると羽黒の人や笠間の馬廻の人がきた。

千駄ヶ谷に向かった。
途中高田の馬場で飛行機二機見た。
幾度か人にきいてやっと芝の避難所についた。

芳之助おじちゃんは居なかった。
芝のおばさんと別れをつげて、向島に向かった。

途中焼け跡を見た。
実に燦燦たる光景だ。
宮城あたりは不思議に残っている。

佐久間町によって艶さんの所を見て、向島に向かった。
吾妻橋で水死人を見た。

幸ちゃん(寺腰幸助十八歳明治三十八年生まれ)の家についたのは、八時頃だった。
六さん(亥之吉の次弟寺腰六三郎)や〇さんも居た。
艶さんは居なかった。

この日の里道(歩いた距離が)十五里。
おどろいた。足が馬鹿につかれて居る。

9月9日 日曜日 晴雨

昨日の疲れで寝過ごした。

幸ちゃんと工場を見た白髭橋で水死人を見た。
くさいなー

それから、中川の方に行って遊んできた。
水死人のある川で、お米研ぎのはいやはやはや。
家に来てから満潮時なので、下から水死人が上がってきた。
見て居ると変なにおいがしてこまった。

夕方清さん※1が帰ってきた。
父が朝大塚に※行った。
夜早く寝てしまった。

※1
幸助の弟 大正3年生まれ9歳
※2
誰か不明

9月10日 月曜日 曇雨

今日はいよいよ帰るんだ。
艶さんと南千住から9時20分の汽車に乗った。

土浦で弁当を買って食べた。
笠間で無賃でよいのに、馬鹿正直に1円57銭使ってしまった。

馬鹿だ。家に帰ってだらだら話をして早く寝てしまうと、
父が7時の汽車で帰ってきた。
滝野君の所に行ってきた。
池田正一君が帰ってきた。

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